明けてゆく空を見ている。思い出している。砂のようにさらさらと手のひらから命がこぼれ落ちていったこと。つながりも記憶もいつかこんなふうに全部こぼれ落ちてしまうのか。生きてる根拠がなくなったって、まだここにいる。生きるとはそういうことか。さびしい骨のようなものか。淡淡と明るんでいる。
ふいに生きているのがいやになって、学校の駅を通り過ぎた。気がつくと博物館で化石の前に立っていた。石に埋まった、長い名前の生き物。死んでからも形を保ち続けるのは、さぞ大儀なことだろう。生きるってなんだ。僕ってなんだ。化石になった僕を想像する。ひんやりした部屋に時計の音が響いている。
ぼんやり雲を眺めている。雲と話すには言葉を捨てなければならない。雲と飛ぶには身体を捨てなければならない。そんなことを考えているうちに少しずつ瞼が重くなる。夢のなかでわたしはいつも雲と話しているのかもしれない。飛んでいるのかもしれない。目覚めたあとそっくり忘れてしまっているだけで。
あたたかい風が吹いて、空気がきらきら光って、今日も地球は回っているらしい。そのどこかで、カバが水浴びしたり、ペンギンが氷のうえを滑ったりしているのだろう。僕は書かなきゃならない手紙の返事を書き出せずに、ぼんやりと外を見ている。憂鬱でまぶしいこの世界で生きる意味について考えている。
日がな寝転んでラジオの雑音を聞いている。あれは雑音じゃないってあの子は言ってた。星の声、むかしの人の声、そんなのが混ざり合ったものなんだって。ざざざざーっと音が響くよ。もしかしたら聞こえるかもしれないもういないあの子の声がその音のなかに。耳をすますよ。ざざざざーっと波のようだよ。
晴れたので、わたしを洗濯することにした。そうしないともうダメみたいだったから。じゃぶじゃぶ洗って、しぼって、干す。白くなって、軽くなる。きっと前より薄くなって、大切なものもたくさん流れてしまったんだろうけど。そんな自分を薄情なのかもしれないと思いながら、ぱたぱたと風に揺れている。
春の匂いがする。なつかしい、いろんな匂いが混ざって、もうすぐ桜が咲くとわかる。だけど知ってる。その花は、去年の花とは違うのだ。ひらひらと舞い散った、あの花とは違うのだ。同じように咲くけれど。どの花も、向こうの世界にいったのだ。花の命が満ちていく。手を伸ばし、春の匂いに触れている。
毎日少しずつなにかを忘れていって、なにを忘れたのかも思い出せなくなって、僕が少しずつ消えていく。いつか真っ白になってしまうのかもって、空を見ながら思う。自転車に乗ってずっと遠い町まで行きたい。僕がだれかも忘れたまま、その町で暮らしたい。ただ風に吹かれて、すっかり消えてしまうまで。
純粋なものが怖かった。見たそばから壊したくなる。それがいつか壊れてしまうのが怖かった。それなら、いま僕の手で壊した方がいいように思えた。純粋であるということが、なにかを信じているということが、なにも信じられない僕を傷つける。僕自身がそれに憧れているということが、僕を深く傷つける。
なにを見ても君を思い出すから、君と暮らした町を離れた。海辺の家で暮らして、やっぱりなにを見ても君を思い出す。だけど気づいた。その記憶が僕を守っていると。今朝、君の夢を見たよ。白く明るい夢で、覚めると少し幸せだった。生きてるものはみな呆気なくいなくなる。砂の上で波の音を聞いている。